人生 論 ノート。 《明白に分かる》三木清とは

三木清「孤独について」(『人生論ノート』所収)

試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。 生誕から大学まで 兵庫県で生まれる 1897年、三木は、兵庫県揖保郡平井村(現・たつの市揖西町)に生まれました。 それだから死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。 しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであらうか。 一般通念に対して、我々が見落としている面に光を当てているような印象を持ちます。 いづれにしても確かなことは、懷疑が特に人間的なものであるといふことである。 人祖アダムといふ思想はここに根據をもつてゐる。

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名著64 人生論ノート:100分 de 名著

知性に固有な快活さを有しない懷疑は眞の懷疑ではないであらう。 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 論理によつて懷疑が出てくるのでなく、懷疑から論理が求められてくるのである。 だいたいGOTOキャンペーンが最悪の愚策だった。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。

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『人生論ノート (新潮文庫)』(三木清)の感想(107レビュー)

たとへば、名を惜しむといふ。 これは『三木清全集 第1巻』(岩波書店、 1966(昭和41年)10月17日 発行 )に拠ったもので、本文は全集の通り旧字で表記されています。 名譽心と虚榮心との區別が瞹昧になり、怒の意味が瞹昧になつた今日においては、たとひアイロニイは稀になつてゐないとしても、少くともその效用の大部分を失つた。 他の章よりもやや短いのが特徴。 抽象的な空氣である。 「虚榮をあまり全部自分のうちにたくはへ、そしてそれに酷使されることにならないやうに、それに對して割れ目を開いておくのが宜い。

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『人生論ノート』(三木清)は、立川談志も驚くような本質をつく名言だらけ|らこすけ@読書|note

そこで怒も常習的になり、常習的になることによつて怒は本來の性質を失はうとしてゐる。 だから眞の懷疑は青春のものでなく、むしろ既に精神の成熟を示すものである。 人生が凝縮されたものが旅である。 或る場合には懷疑は神祕化され、それから一つの宗教が生ずるまでに至つてゐる。 一般に生理は道徳に深い關係がある。

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【100分de名著】人生論ノート 「本の紹介」感想まとめ

自分よりも幸福な状態にある人• 生命は関係でも関係の和でも積でもなく、虚無から形成された「形」である。 著者が豊かな個性を持った自立した存在として見ていた人間は、頼みにするところもなく、頼みにするものも知らないままにいる、そんな存在。 歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。 「人生論ノート」は、人間が生きる上で、必ず直面する身近な問題について書かれています。 さうすれば、俺だけは死んでみせるぞといつて死を企てる者がきつと出てくるに違ひないと思ふ。 人に氣に入らんがために、或ひは他の者に對して自分を快きものにせんがために虚榮的であることは、ジューベールのいつた如く、すでに「半分の徳」である。 これは後で知ったことですが、戦後、京都学派の人々の一部は戦争犯罪人として公職を追われていました。

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【100分de名著】人生論ノート 「本の紹介」感想まとめ

例へば、倫理的といふことと主體的といふこととが一緒に語られるのは正しい。 この點において愛は名譽心と對蹠的である。 教授の職を辞さなくてはならなくなった三木は、多方面で活躍を始めます。 人間が小説を模倣しまた模倣し得るのは、人間が本性上小説的なものであるからでなければならぬ。 理想だけが現実を変える力があるという考えは、現代のテクノロジーで政治や仕組みを変えていく姿勢ともかなり近いものがあるのではないでしょうか。 怒はとりわけ突發的なものであるから。

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三木清 人生論ノート

世界が人間の条件であることによって虚無はそのアプリオリである。 このことは如何にして可能であらうか。 世界各国で排外主義的な思潮が猛威をふるいはじめていました。 昔の人はそのことをよく知つてをり、知つてよく實行したが、今ではその智慧は次第に乏しくなつてゐる。 孤独の感じは急に迫ってくるであろう。

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【100分de名著】人生論ノート 「本の紹介」感想まとめ

現代人は無限定な世界に住んでゐる。 幸福について考へないことは今日の人間の特徴である。 人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。 四十八歳で無念の死を遂げるまで、三木は精力的に自らの思想を世に問い、二十巻におよぶ全集が編めるほど膨大な著作を遺しました。 ギリシアの古典的な倫理學がさうであつたし、ストアの嚴肅主義の如きも幸福のために節欲を説いたのであり、キリスト教においても、アウグスティヌスやパスカルなどは、人間はどこまでも幸福を求めるといふ事實を根本として彼等の宗教論や倫理學を出立したのである。 例えば、彼氏や彼女のスマホを見て自分の中で想像して嫉妬してしまうのが典型例ですね。 幸せは自分の内にある。

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